待降節 と 四旬節  B年  2011〜2012



2011年

待降節



2012年

四旬節




待降節第1の主日
待降節第1の主日
待降節第1の主日
待降節第1の主日
主の降誕 12月鵜24日


四旬節第1の主日
四旬節第2の主日
四旬節第3の主日
四旬節第4の主日
四旬節第5の主日
枝の主日


 
               待降節第1主日B  20111127日  グイノ・ジェラール神父

         イザヤ63,16b-17,19b,64,2b-7  Tコリント1,3-9  マルコ13,33-37

    待降節の第1の日曜日によって、新しい典礼暦年が始まります。 その際に、クリスマスの喜びのうちにイエスを歓迎するように、神から私たちが新たにされる招きを受けています。 預言者イザヤはしつこく、神が私たちに近くなってくださるように催促します。 「ああー、あなたが天を裂いて降りて来てくださればよいのに」(イザヤ63-19) と。

  イザヤは天と地の間、また神と私たちの間に隔てや分離がないようにと、一生懸命に望んでいます。預言者イザヤはアダムとエバの時代、すなわち、黄金の時代が戻るように夢を見ています。 イザヤの考えている世界では、創造主の神と創られた被造物は、平和共存の雰囲気の中に生きています。 「わたしたちは粘土であり、あなたは陶工である」(イザヤ64,7) とわざと言い、イザヤは神に悪に染まっていない過去の郷愁を与えようとします。 イザヤが想像している世界の中で、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏し、子牛はライオンと共に育ち、乳飲み子は毒蛇と一緒に遊びます。」(イザヤ11,6-8)

   使徒パウロも平和な世界を待ち望んでいます。 賜物として、信じる人たちに神によって与えられているこの平和が、キリストが来られる日まで、私たちが忠実に神に留まることを可能とする貴重な恵みです。 私たちは感謝のミサの祭儀に与る毎にこの平和をいただきます。 この平和はキリストの復活のうちに、力を取り出します。 「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。 わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14,27)  キリストと共に永遠に生きるように、神によって私たちは召されていますから、イエスの平和が終わりまで、忠実に揺るぎないように、私たちを強く支えるとパウロが証ししています。

   真面目に自分の務めを果たしながら、自分の振る舞いに気を付けて、疑う余地のない明白な生き方をしなければなりません。 というのは、キリストが来られるまで私たちはキリストの到来を準備しながら、彼を待つ使命をイエスからいただいているのです。 待降節は特に、贖い主、救い主としてイエスを歓迎する平和とよろこびの季節です。 私たちは知っています。 クリスマスの日には、キリストが必ず私たちの間におられると言う事を。 ですから、早めに私たちの心と魂を整えましょう。 非の打ち所のない者になって、

   罪から清められ、聖霊のよろこびが私たちを満たしますように。 値が付けられない程、高いこのよろこびは、ゆるしの秘跡によって、無償で私たちに与えられています。

  新しい世界を望んでいる人は先ず、自分を新たにしなければなりません。 自分の罪と欠点を見せながら、陶工である神がご自分の手で、私たちを新たに形作られるのを願うのは神に栄光を与える事になります。 自分に罪がないと思い、他人よりも優れて完璧であると思い込んでいることは、高慢な行いであり、その高慢は神が自分のうちに働かれるのを妨げています。 神のゆるしを受けるために、兄弟姉妹と共に告解室の前で行列を作ることは謙遜の行いです。 それはまた、一致の行いでもあります。 というのは、私たちは皆、罪人であり共同体的に、個人的に正しくされ、聖とされる必要があることを一緒に証しするからです。

 告解室のドアの前で、自分の番を待つのは愛徳の行いです。 何故ならその態度は公に自分が神のゆるしが必要だと言う事を示します。 またこの態度は、告解をすることをためらって自信がなかった人に、並びの行列に兄弟姉妹と共に加わる勇気を与えるからです。 救い主キリストを期待することは、いつも告解室のドアの前で待つことから、すなわち、神のゆるしを待ち望むことから始まります。 「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂き、お前たちの神、主に立ち帰れ。 主はめぐみ深く、憐れみ深い。」(ヨエル2-12) と預言者ヨエルは宣言します。 もし、神の慈しみとゆるしを受けるために自分の心を引き裂くならば、疑いもなく私たちの直ぐ側に近くなるために、そしてご自分の平和とよろこびで私たちを満たすために、神が天を引き裂くでしょう。

 この待降節第1の日曜日に当たって、教会が私たちに勧めることを、従順に行うように私たちを招いています。 ほんの少しの従順は、全くない従順の態度よりも値打ちがあるのです。 従順は神を探し求め、神を見つけるための沢山の手段の中で、確かな一つの方法です。 罪から私たちを救うために、「キリストは死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2-8)  イエスは神に従うべき道を示し、どのように罪に死ぬかを私たちに教えておられます。

 天の国の門は告解室のドアのように非常に狭いのです。 しかしこれらの門は神の寛大な憐れみ深い心に開かれています。 神の心は永遠のよろこびと、聖性で満たされた愛の泉です。 この待降節の間に、私たちが教会の告解室の小さなドアを通して入る知恵と従順を持ちますように。 なぜなら、皆さんが知っているように、イエスも教会の告解室の小さなドアから私たちの側に戻って来られるからです。 アーメン。



         待降節第2主日(B年)   201112月4日     グイノ・ジェラール神父

        イザヤ4015911節  ペトロ第1の手紙3814節  マルコ118

    イザヤ預言者と洗礼者ヨハネは荒れ野の中に道を準備するように要求します。 この道は自由の道となり、特に神ご自身の道となります。 結局、預言者イザヤと洗礼者ヨハネは、この道は「主と出会う道」であると確信を持って言います。 この道を通って神は私たちと出会いに来られ、近づいて来られます。

    しかし、神と出会うのはやさしくないと、ペトロは手紙の中で忠告しています。 神はゆっくり走られます。 神にとって、「千年は一日のようなもの」であります。 私たちもまた私たちの心の荒れ野の中で道をたどるには、時間が必要です。 この道を通って神は私たちを迎えに来ます。 神の忍耐が私たちの忍耐とならなければなりません。 神は私たちと早く出会いたいと急がれますが、私たちも神と同じ急がしさをもって、できるだけ早く神と出会おうと望まなければなりません。

   マルコの福音書は心をひきつける、素晴しい語りで始まります。 マルコは「始まり」が主題だとはっきり言います。 というのは、イエスを通して始まる歴史は、完成されるのはずっと先だからです。 マルコは自分の物語にギリシャ語の「エバンジェリオン」というタイトルをつけましたが、その意味は「良い知らせ」ということです。 この良いしらせとは、ナザレトのイエスが、本当に預言者たちの告げた救い主であるということです。 復活された彼は神の御子で、私達は世の終わりに、栄光のうちに彼が帰って来られるのを待ち望んでいるのです。 故に、私たちはイエスの直ぐの到来、つまり御降誕、非常に近いクリスマスを準備します。

    洗礼者ヨハネはイエスが誰であるかをはっきりと言います。 イエスは政治的な解放者ではなく、「聖霊のうちに洗礼を授ける方」です。 洗礼者ヨハネはヨルダン川の泥水の中で洗礼を授けましたが、イエス自身は神の命の涸れる事のない清らかな泉です。 洗礼者ヨハネは永続的な本当の回心によって、イエスを選ぶように勧めます。 自分自身とこの世が変わるという望みに結びつくイエスへの信仰が、神の国の到来を実現します。 なぜなら、このキリストこそが、すべての者が永遠に生きるようにと、自分の命を与えに来られたからです。

    既にイザヤ預言者は、主のために平らにされ、真っ直ぐな道を準備するように、私達に勧めています。というのはこの真っ直ぐな道は、傲慢と利己主義の妨げから開放された私達の心を通るからです。 私たちの真っ直ぐな心は、神の愛の力を受け入れます。 この愛は私たちを救い、聖化し、命を与える愛です。

    時には、神と出会わないと私達は嘆く時があります。 しかし神を捜すために私達は何をしたでしょうか? 神を見つけようと本当に望んだでしょうか? この待降節の時は、私達の道を立て直し、神のみ言葉と親密になるように、私たちを手伝うもっとも好都合な時です。 ただ神のみ言葉の真面目な瞑想だけが、私達の生き方にある危険なカーブを発見させ、神に向かう私たちを遅らせるすべての回り道を見つけさせる事ができます。 イエスの声を聞き、私たちに与えたいと望まれるすべての恵を受ける事ができるように、聖霊のうちに新たにして下さることを願いましょう。 しかし、私たちの霊的怠惰がそれを受けるのを妨げないように・・・

 疑いもなく大勢の人が、自分の心のうちに、イエスのために惜しむことなく場所を整えるには、たくさんの待降節のときが必要でしょう。 また私達が過ごす一つ一つの待降節を活用しなければなりません。 もし私たちが利己主義と罪に留まっているなら、イエスは決して私たちの友として名乗りを上げて下さらないでしょう。 その時には、私達は彼がもたらして下さる大きな喜びや限りない希望を、決して知る事がないでしょう。 クリスマスに先立つこの
3週間の間、一緒に、主に向かう道をよく準備するように急ぎましょう。 明日、私たちは無限罪の聖マリアの祭日を祝います。 罪から解放された心のうちに、神の喜びで飾られた魂のうちに、この美しい道が実現するために、マリア様が手伝って下さるように・・・アーメン




            待降節第3主日 B年  20111211日   グイノ・ジェラール神父

          イザヤ61,1-2a、10-11  Tテサロニケ5,16-24  ヨハネT,6-819-28

    待降節第3主日は喜びの日曜日です。 預言者イザヤが熱心に叫ぶのは、解放の喜びです。 この喜びこそ、聖霊で満たされた使徒パウロの喜びです。 彼は私たちが、喜びの心で絶えず祈るようにと切に誘います。 またこの解放の喜びは、洗礼者ヨハネの喜びでもあります。 彼はファリザイ人の狡猾な質問に惑わずに、はっきりと救い主の到来を告げ知らせます。 最後はクリスマスが近づくと、この喜びは私たちの家族的、また共同体的喜びとなるのです。

   さて、救い主の母マリアをご自分で満たした聖霊は、洗礼者ヨハネ、パウロ、イザヤの口を通して良い知らせを告げた同じ聖霊です。 この聖霊は私たちの共同体の中に効果的に働いています。 私たちの共同体が、神の愛が解放である事を体験させるために、聖霊はこの共同体を喜びと祈りの場とし、また聖化しています。 愛のうちに、御独子イエスを私たちに与える事で、神は 死と罪とあらゆる悪から私たちを解放し、私たちを癒し、力づけ、さらに聖なる者とします。 この良い知らせを告げている預言者イザヤは「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍ります。」と叫んでいます。(イザヤ61-10)

  エリザベトが訪問された時、マリアの挨拶を聞いた途端、洗礼者ヨハネはお母さんの胎内で、預言者イザヤが味わった喜びで 楽しく躍りました。(ルカ1,44)  そこで、マリアとエリザベトも聖霊に満たされて、同じ喜びを抱き、声を合わせて、ご自分の民を救うために来られる、神の素晴らしい業をほめたたえました。(ルカ1,44-45)

   神が私たちに与える救いは 喜びと歓喜の秘跡です。 「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれています。」(ローマ5-5)  神の愛に留まるなら、決して喜びは私たちの心から離れる事はできません。 そして、平和のうちにあって私たちは 人間のことばで言い表せない、神の神的な喜びを味わうでしょう。 「神の喜びは城壁である」と詩編(118)と預言者ネヘミア(8,10)は宣言します。 そう言う訳で、使徒パウロは「絶えず喜ぶこと」を私たちに強く願っています。(フィリピ4,4-5、Tテサロニケ5,16)

   しかし、いくら、今日の全ての朗読が喜ぶように誘っても、私たちは預言者イザヤが述べている人たちを忘れる事はできません。 彼らは貧しい人、弱い人、病気の人、悩み苦しむ人、自然災害の犠牲者、飢えている人、水が非常に不足している国々の人、それと全く反対に洪水で全てを失った人々です。 この全ての人たちは、この悲劇的な状況の中で私たちと同じ喜びを到底、味わう事はできません。 ですから、彼らのために祈り、手紙や電話を使って訪れる必要があります。 また寄付や義援金、あらゆる犠牲によって、 例えばタバコ、お酒、テレビ、無駄な買い物などを慎む、携帯電話の使い過ぎを我慢するなど、あらゆる断食によって彼らを元気づける事ができるのです。

   また、諸聖人に真似て、喜びと慰め、励ましを人々に与える事もできます。 二つの例を挙げましょう。 聖ビルジッタは毎晩、夜中に起きて、イエスに自分の修道院の全てのシスターの名前を叫んでいました。 彼女は特別な願いをしませんでした。 キリストが各々のシスターたち、一人ひとりに今、必要とするものを必ず与える事を信じていたからです。 わたしの幼い時、ある司祭が毎晩、聖櫃の前で大きな声で自分の町の電話帳に載っている、1ページか2ページの名前を読んでいました。 このようにし、この司祭は自分の町の全ての人を主に紹介していたのでした。 私たちは聖ビルジッタやこの司祭を真似てはいかがでしょうか? 簡単に毎日イエスに自分の共同体の人たち、自分の親戚、友達、敵を主に紹介しましょう。 そして忘れずに自分が、ある人々のために望んでいる最も良い生き方、最も良い暮らし方を主に切に願いましょう。

  このように、私たちの喜びが大きくなり、神の救いを歓迎するために、私たちの心もふくらみます。 祈る時には、自分自身についてイエスに語るよりも、他の人のことをイエスに打ち明けましょう。 特に、私たちの周りの人々を主に紹介しましょう。 テレビが私たちに絶えず重荷を背負う人々の顔を見せ、また彼らの叫びを聞かせます。 この人たちは皆、一緒にこの世で暮らしているのですから、私たちの祈りは、信仰生活と同じように共同体的、かつ宇宙万物的、すなわちカトリックでなければなりません。 福音的な喜びの秘密はこの祈り方の中にあります。 この祈り方は容易に私たちに宣教的な魂を与えるのです。

  今日、聖霊が私たちの上に降り、ご自分の喜びに溢れる力で一人ひとりを満たしますように。 聖霊によって満たされた私たちは、「私たちの寛容さを全ての人々に知らせながら」(フィリピ4-5) 喜びに溢れる証し人になりましょう。 世界の人々のために喜びのうちに捧げられている絶え間ない祈りは、必ずこの世を美しくしながら、あらゆる悪と死から私たちを解放し、良く守ります。 アーメン。



               待降節第4主日  B  2011.12.18  グイノージェラール神父

        サムエル下7,15,812,14,16   ローマ16,2527  ルカ1,2638
 
    待降節の第4主日は、救い主の誕生の神秘を紹介しています。長い間 秘められたこの神秘は、今日啓示されていると パウロは述べています。この神秘は、信仰の従順へと私達を導きます。というのは、昔、預言者によって約束された救い主としてキリストを認める機会は、全ての人に与えられているからです。使徒パウロにとって、世の贖い主としてイエスを認めない人々は、不従順の状態にあり、かつ、あらゆる時代の人の救いを望まれる神に対して敵対しています。

   昔、アダムとエバに告げた救いの神秘は、後に神の民となり、救いの契約の民となったアブラハムとその子孫を通して形を取り始めました。次に、ダビデは「とこしえに堅く据えられる」王の血統の最初の人となるという神の約束を受けていると同時に、神が、その時以来、「父」として御自分を現すという保証を受けました。「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(サムエル下7,14)と神が誓います。のちに、父なる神の神秘をはっきりと示すのが、キリスト御自身の使命となります。 

   ところが、ダビデが神の為に作ろうと思っていた神殿は、実は、神御自身が建て、そして、その神殿を内面的なものとする、と聖ヨハネと聖パウロが説明しました。「見よ、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は、自ら人と共にあって、その神となる。」(黙示録21,3)「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり・・・だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Tコリント6,19-20)と使徒パウロが説明しました。エルサレムの神殿の境内で、イエス自身は、御自分の体が神の神殿であることを大声で宣言しました。「この神殿を壊して見よ、三日で建て直して見せる。しかし、イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだった。」と使徒ヨハネが証ししました。(ヨハネ2,19-20

  聖霊の神殿となった次の方は、聖母マリアです。神にとって、マリアは絶え間ない喜びの泉です。神に人間の体を与えることによって、マリアは全人類に救いの門を開きました。まことの神、まことの人間であるイエスは、私達の為に死に、復活することによって、私達の死すべき体に、永遠の命を与えます。信仰のうちにキリストを贖い主として承諾することによって、私達の体はキリストの体の一部となり(Tコリント6,15)、そして、聖霊の神殿とされています。従って、私達も、マリアのように、神のために、絶え間ない喜びの泉となります。今日、教会は、使徒パウロと共に、この神秘を私達に啓示しているのです。

  もう一つの神秘は、キリスト御自身と関係があります。というのは、神が私達の人間性の内に体をとるからです。神は私達と共に住みたいので、私達と同じようになりました。神は特に、私達の内に留まりたいのです。そのため、神はマリアが示したのと同じ信頼を、私達に要求します。神が私達の間に住まわれるために、マリアは聖霊の住む場所になることを承諾しました。次に、私達も、信仰によって聖霊の住む場所となったので、世の救いの為に神が、私達によって、私達と共に、私達の内に働くように、神に対し揺るぎない信頼を示しましょう。

  自分の人生の中で、神に場所を与えるのは容易なことではありません。アブラハム、ダビデ、マリアにとっても、そうでした。自分の内に神を歓迎することは、揺るぎない信頼をもって神と共に働くのを承諾することです。神と共に働くとは、自分の物の見方や考え方、それまでの習慣を全て捨て去ることを要求します。神の協力者になるとは、結果として人から理解されなかったり、避けられたり、仲間はずれにされたり、というリスクを負うことです。しかし、神に協力することで私達は、結果的には必ず、最も良い方法を選ぶことになります。つまり、私たちは自分の弱さの内に、神が必ず御自身の力を現すという確信を持っているからです。そして、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように、共に働くということを、私たちは知っています。」(ローマ8,28

  神と共に一つの心と魂となっているマリアと天国の聖人達は「神がすべてにおいて、すべてとなる」(Tコリント15,28、使徒言行4,23)と強く望んでいます。私たちは 諸聖人の交わりの中で、最初にイスラエルの民に、次いでキリストの教会に委ねられた神の神秘を 一つずつ理解することができます。神に対するアダムの否定は全てを妨げフリーズさせました。しかし、マリアの神に対する承諾の「はい」は、全人類に大きな希望を取り戻しました。神と人々の愛の計画は、キリストの内に実現されています。父なる神はキリストのうちに全てを集められるからです。(エフェソ1,10

  その時以来、神は全てにおいて全てとなって、世の終わりまで、毎日、一緒に留まります。ご自分の内に永遠に私達を生かそうとする、インマニュエルである神は、どうしても、私達の内を御自分の住む場所としたいのです。また、イエスが約束されたように、神は御自分の内に私達を留まらせます。「わたしを愛する人は・・・わたしの父はその人を愛され、父とわたしとは、その人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネ14,23) 神が自分の内に留まるかどうかを、誰であれ、人は自由に決定することができます。けれども、洗礼によって私達は、既に、神に「はい」という返事をしました。つまり、私たちは神の愛の計画を受け留めた上で、その為に真心から働く事を自ら選びました。ですから、今年のクリスマスに当って、神が本当に私たちの内におられることを体験させていただきましょう。せっかく、私たちが聖霊の神殿となっているのですから、救いの協力者として 母マリアと全ての聖人と共に、神の現存を深く味わいながら、神と大勢の人の為に、絶え間ない喜びの泉となりましょう。アーメン。



                    主の降誕(夜半)2011-12-25  B グイノ・ジェラール神父

          イザヤ9,1-35-6    テトス2,11-   ルカ2,1-14

   預言者イザヤは、一人の子どもの誕生を告げ知らせます。平和の君であるこの子どもは、全人類を覆う暗闇を追い払う使命を持っています。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9,1) 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(イザヤ9,5)友人テトスへの手紙の中で、使徒パウロは、イエスの内に「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(テトス2,11)と、宣言します。確かにキリストの御降誕は、全人類にとって、新しい出発です。
   
  全人類を救うために、神はメシヤを私達に与えて下さいます。どんなに努力しても、どんなに強く望んでも、自分達では平和を築くことができる知恵や、正義、力を世に与えることは、到底できません。平和の君であるイエスにおいて、神はこれらの必要な賜物を全て与えました。神の平和をいただくために、私達はまず賜物としてイエスをいただく必要があります。

  主の御降誕が、私達に神を知る恵みを与えます。神は愛にあふれている、慈しみ深い父です。この父は、全ての人の救いと幸せを望んでいます。かつて、良き牧者となるイエスを、最初に歓迎した人々は羊飼い達でした。彼らは、ベツレヘムの飼い葉桶の中に寝ているイエスを見つけました。ベツレヘムの町の名は「パンの家」を意味します。素朴な飼い葉桶の中に、あらかじめイエスが自分自身を「命のパン」として、人々に捧げられておられるのです。大人になってから、イエスは自分自身について、はっきりと次のように宣言されます。「私は天から下ってきたパンである(ヨハネ6,41)」、「このパンを食べる者は、永遠に生きる(ヨハネ6,58)」

  ところで、預言者達によって告げ知らされたメシヤは、ご自分の内に二つの神秘を持っています。それは贖いの神秘であり、そして同時に、世の終りの審判者としての神秘です。預言されたメシヤのこのような側面は、私達に恐怖を与えます。ところが、イエスはこれに反して、幼い子どもとして全人類の歴史と、私達それぞれの個人の歴史の中に来られます。誰一人として、小さな子どもの側に近づくことを怖がらないでしょうし、自分の手でパンの一切れを取ることになんの躊躇もしないでしょう。このように、乳飲み子の弱さと無邪気さの印を通して、また、かまどからだしたばかりの焼きたてのパンの風味の印を通して、神が私達にご自身を引き渡すのです。藁の上に寝かされた幼子を長く仰ぎ見た羊飼い達は、自分達の内に、神の風味をいただいて、イエスを拝みました。確かに、イエスに注がれた眼差しは、必ず礼拝することと感謝することへと人々を導きます。天使達のメッセージは、羊飼い達の心を感動させました。キリストを静かに見つめていたことで、羊飼い達の心は希望で満たされました。結局、羊飼い達は新たにされた状態で、家路に着いたのです。

  この夜こそ、クリスマスの恵みが皆様の心に触れ、皆様の内面的な眼差しを開きますようにと、私は切に祈ります。今夜こそ、神の平和と喜びによって、私達皆が新たにされなければなりません。羊飼い達が体験したように、私たち全員が神の風味を味わうべきです。ある詩篇を通してダビデは私達全員を誘っています。「味わい、見よ。主の恵み深きことを、味わい、知れ。」(詩篇34,9) 神ご自身によって自分を養う人は、必ず自分の唇にあふれる賛美の泉が、自分の心の内から湧き出ていることを感じるでしょう。これこそクリスマスの喜びであり、そして毎日がクリスマスなのです。

   残念なことに、イエスの誕生は、私達人間が置かれている現状を変えるものではありませんでした。けれども、キリストの誕生は、全人類に偉大な希望を与えました。そしてキリストの死と復活が、人間の状態を完全に変えたのです。イエスのご受難とご復活が、私達のために永遠の命の門を開いたのです。神の光は、罪の暗闇に打ち勝ち、死はその力を完全に失いました。今から後、永遠に「私たちの人生は、キリストと共に神のうちに隠されているのです」(コロサイ3,3)しかし、天の国の遺産を完全にいただく前に、私達はまずイエスを長く見つめる必要があります。次に贖い主として、イエスを認めるのなら、更に、私達を愛する神としてイエスを礼拝するべきです。

 イエスを見つめることは、私たちがどこから来て、そしてどこに行くのかを知る助けとなります。ありのままにイエスに近寄り、イエスから全てをいただきましょう。愛によって、神の似姿に造られた私達は、確実に神と共に終わりない喜びと平和の内に生きるように召されているのです。ベツレヘムの羊飼い達のように、自分の周りに「神を知るという、知識の香りを漂わせましょう何故なら私達は神にさ捧げられている、キリストの良い香りですから」(
Uコリント1,14-15)。 このクリスマスの夜にあたり、私達の救い主であり、贖い主であるキリストによって、神ご自身の喜びや平和や愛の豊かさで、私達の心が満たされますように。アーメン。



                四旬節 B 年

四旬節第1主日  2012-2-26  B年      グイノ・ジェラール神父

       創世記9,8-15     Tペトロ3,18-22    マルコ1,12-15

    ノアとその家族は神を盲目的に信頼していました。 洪水の波に激しく揺さぶられた後、彼らが新しい創造の始まりとなる安全な場所をようやく見つけました。 彼らの冒険の間、彼らを守った神は揺るぎない契約を彼らに与えます。 即ち、神は全ての生き物の命を守る決意を誓います。 創造されたものは初めから人間に委ねられ、人間はその責任をずっと持ち続けるのです。 しかし、人はただ神だけが命の主であることを思い起こさないといけません。 実にノアとその家族に結ばれた契約によって神は命を支える方であることを示します。 人は命を実らせる責任を持っています。 天に置かれた虹はこの世を前よりも、もっと美しくする神と人間の共同協力の目に見える印(しるし)です。

  洪水は巨大な津波のように全てを滅ぼす予定でした。 しかし、被造物と結ばれた契約によって神は却ってこの洪水を命の泉とします。 その為に使徒ペトロは、洪水を 人が受ける洗礼と 比較します。私達はみんな洗礼の水の中で死にました。 キリストと共に復活した私達は、新しい人となって命の証し人となりました。 ペトロは私達の使命を教えています。 それは神に対して正しいよい良心を持って、信仰を証ししながらキリストの復活に与ることです(参考1ペトロ3,16-17)。 イエスの内にこの世が神と和解する永遠の契約を私達は持っています。 命の泉であるこの契約は、私達と大勢の人の為に流されたキリストの血によって十字架上で封印されました。

  マルコは、平和で満たされた創造の内にあるイエスを見せようとします。 そこで彼を奉仕する天使たちは、野獣と共に共存しています。 遠い昔、アダムの罪が閉じたエデンの園の門(神の国の門)をイエスは新しいアダムとして、改めて全人類に開くのです。 マルコは砂漠の中でイエスの受けた誘惑についてあまり語りません。 マルコにとってイエスは既に、誘惑者と彼の破壊する力に打ち勝ちました。 そういう訳でマルコの福音は、次の言葉で始まります。 「神の子イエス・キリストの良い知らせの初めです。」(マルコ1,1) 確かに、キリストと共に新しい主パ津が始まりました。

  アダムの罪のせいで、私達は神との親密さを失ってしまいました。 完全な人間であるイエスは私達を神と和解させ、そして新生と命の泉である神の親密さに再び導き入れます。 イエスは天と地を繋ぐ真の虹です。 イエスは、神とご自分の血によって贖(あがな)われた全人類の唯一の仲介者です。 イエスの内に命は完成され、充満されます。

  「回心して福音を信じなさい。」 このイエスの招きは、四旬節と今日のミサの初めに灰のしるしを受けた全ての人に司祭が与えた同じ招きです。 回心すること、よい知らせを信じることは、二つの事であっても同じ唯一の事です。 イエスは私達に決して次のように言いません。 「つぐないなさい、断食しなさい、犠牲を行いなさい、自分の生き方を変えなさい、」など。 むしろ、私達が責任のある自由な人間になることが出来ることを信じるように私達を招いています。 使徒ペトロの教えを参考にすると、「私達は神に対して正しい良心を持ちながら生きていかなければなりません。」 と言うのは、死の方へ私達を引き寄せる全てのものを支配しなければなりません。 これこそ、私達の全生涯の戦いです。

  回心するとは、どのように物事や人々や神とつながっているか について考え直す事です。この面では、アッシジの聖フランシスコが助けになります。 私達はみんな「彼が、らい病人に与えた接吻の物語、小鳥への説教、グッビオ村のペットとなった残酷なオオカミの話、フランシスコの被造物の賛歌をよく知っています。 私達は、和解と平和の泉になろうと絶えず望んだフランシスコの模範によって深い影響を受けました。 聖フランシスコは、長い断食をしませんでした。 むしろ、正しい良心を持って自分の信仰を活かそうとしていました。 出会った全ての人を尊敬しながらフランシスコは、自分の心と眼差しを創造された物事にまで広げようと、絶えず努めました。 そうする事で彼は、キリストに属する喜びを表しました。

  この四旬節の間、聖フランシスコの様に兄弟姉妹、動物、天然資源、地球、と物事に対する私達の持っている関係を正しましょう。 大自然をうっとりと見とれている人は、必ず簡単に神を仰ぎ見ることが出来ます。 新しい目で自分達を囲んでいる世界を見ながら、私達は分かち合いと祈りの内に根を下ろしている、内面的な眼差しを受けることが出来ます。 四旬節の目的が特にここにあります。 教会は互いの尊敬、平和、赦し、一致、分かち合いと祈りの活動を行うように切に誘っているのです。 四旬節は、自分の信仰と希望を新たにする呼びかけです。 この呼びかけは、自由と喜びの方へ私達を導きます。 アッシジの聖フランシスコはこの喜びを『完全な喜び』と呼んでいました。今日、待たずに、この喜びが私達の心と眼差しを満たしますように。アーメン。




            四旬節第2主日  2012-3-4    B      グイノ・ジェラル神父

       創世記22,1-2,9-13,18     ローマ8,31-34     マルコ9,2-10

    「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。 誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。」と使徒パウロは感動しながら証しします。 ご自分の愛で私たちを包もうと 私たちがいる所に追いつこうと努力する神について、イスラエルの歴史は教えています。 聖書によれば、山という所は、信仰の試練の内に神が人々にご自身を親しく啓示する場所です。 言い換えれば、山は全人類の幸せを実現するために天と地が一致する象徴的な所です。

  このように示された山で、神がアブラハムの信仰を試し、そしてその子イサクが生け贄となるように願います。 アブラハムは20年以上もの間、イサクの誕生を望んでいたにもかかわらず『約束の子』と呼ばれていた息子を、生け贄として捧げなければなりません。 この焼き尽くす生け贄(にえ)は、生け贄となる人の命も、また全ての生き物の命も神だけに属する物であることを表しています。 引き裂かれた心で盲目的な従順を示して、アブラハムは神の言葉に従います。 その時、神はアブラハムに自分の息子を返し与えるだけでなく、アブラハムと最も美しい契約を結びました。 それは、アブラハムが「数え切れないほど大勢の人の父となり」そして神ご自身と同じように「全ての人に対して祝福の泉となります。」 「あなたが自分の独り子である息子さえ惜しまなかった。」(22,16)と神はアブラハムに打ち明けます。 1700年後、不思議なこだまのように、パウロが父なる神に対して言ったことを、私たちは聞き分ける事ができます。 「私たち全ての民のために、その御子さえ惜しまず、死に渡された神は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8,32)

  実に父なる神の声は、ほかの山の頂、即ちタボル山でイエスによって、全人類に与える完全な賜を示そうとしました。 「彼は私の愛する子、彼に聞け」(マルコ9,7) 弟子たちは、主イエスについて、また彼の使命について、神ご自身の驚くべき興奮させる証しを受けとめる事になります。 私たちのために引き渡そうとするイエスの言葉を聞くことによって、神は惜しみなくご自分の全てを私たちに委ねようとします。

  ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、完全な姿でイエスの神としての栄光の美しさを見ました。 ペトロ、ヤコブとヨハネが、このようにイエスと共に特別な体験をしたのは、私たち自身の信仰の支えとなるためでした。 「初めからあったもの、私たちが聞いたものを伝えます。 すなわち、命の言葉について。私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見てあなたがたに証しし、伝えるのです。」(
Tヨハネ1,1-2)とヨハネは証ししました。

  弟子たちは、変容されたイエスの内に「信じる人々に約束された未来の美しさを見ました。」 彼らは神ご自身の栄光の内に沈められます。 聖シロアヌと言う東方教会の修道者は次のように証ししました。 「神が私たちを創造したのは、私たちがその栄光によって生きるためです。」 確かにキリスト者はとても美しい者です。 人間であって、イエスの内に光輝いた栄光は、あらかじめ人間の内に神の現存を表されました。 私たちはキリストのように、変容されるようにと召されています。 しかし、キリストにとっても、私たちにとっても神の言葉を忠実に聞くことによってのみ、この変容は実現されます。

  山の上で、イエスのそばに現われたモーセと預言者エリヤは昔、神の顔を見ようとしましたが、残念ながら、神の後ろしか見えませんでした。(出エ3,13、列王上19,13)イエスの弟子たちも神の顔を見ませんが、神がキリストに対する御自分の愛を証しする声を聞きました。 この神の言葉は彼らの心の奥深くに刻み込まれる事でしょう。 私たちはアブラハム、モーセ、預言者エリヤ、イエスの弟子たちと同様に神の言葉だけに委(ゆだ)ねるように招かれています。 ご存知のようにユダヤ教とキリスト教だけが神の言葉をずっと聞きながら、その言葉に基づいて生き、考え、行う唯一の宗教です。 「神の言葉は命の光であり、私の足の灯である。」(詩編119,105)

  イエスが約束されたように、神の言葉が私たちを変容します。 「その時、正しい人々は父の国で太陽のように輝きます。」(マタイ13,43) 私たちの良い行いは私たちの内に光を放出します。 と言うのは、私たちは光であり、善である神の似姿として創られたからです。 使徒パウロは「私たちは皆、鏡のように主の栄光を映しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に創り変えられていきます。」(
Uコリ3,18)と述べています。 またパウロは同じことを異なった言葉で宣言します。 「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。」(ローマ8,18)「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に輝いて現れるでしょう。」(コロサイ3,4)これよりも、私たちの運命の美しさを上手に述べる事がいったい出来るでしょうか。

  ですから、兄弟の皆さん、神の言葉をしっかりとつかんで、自分の支えとしましょう。 目の前にある復活の喜びの約束を目指して、勇気を出して歩きましょう。 確かに、この四旬節の歩みの時、イエスは私たちの傍に立って、次のように言われるでしょう。 「恐れる事はない。私はここにいる」と。 アーメン。



          四旬節第3主日   2012-3-11  B    グイノ・ジェラル−ル神父

        出エジプト20,1-17    Tコリント1,22-25     ヨハネ2,13-25

    ご自分の似姿として創られた人間を、どれほど神が大切にされるかを 旧約聖書と新約聖書の中で発見することは、とても大事なことです。 十戒か、福音の数多くの奇跡か、預言者たちが与えた賢い勧めか、イエスと弟子たちが教える事か、とにかく聖書全体は、人間の正しい場所を与えるのです。 人間の尊厳を傷つける全てのものを、聖書は強く責めたり、咎(とが)めたりしています。 人間を守るために昔から、カトリック教会はあらゆる面で神が啓示した事、聖書が教えた事を人々にふれて回る義務があります。 残念ながら、教会が宣言する真理に耳を傾ける人は非常に少ないです。

  神の心を喜ばせる神殿とは、石で建てられた神殿ではなく、むしろ、神がご自分の手で形作られ、愛の内に加工された神殿です。 私達の内に留まる事ができるために、神は心と魂を持つ人間として私たちを創られました。 そのために、神は人間の体に直接に攻撃するものをとがめて、はっきりと駄目だと宣言します (例えば、殺意、自殺、奴隷制度、売春、中絶、不倫、暴力、病気と死など)。 神はまた、人間を軽蔑し、彼らの持ち物に害を与える物事をも咎(とが)めて、はっきり駄目だと宣言します (例えば、不正、悪口、偽証、盗み、詐欺、差別、不当な給料などです)。 このように与えられた十戒は、全てにおいて、人に神ご自身の眼差しを与えながら、人間を守る目的を持っています。 神の似姿に創られた人間が掟を守る事で、自分の内にそして全ての人の内にその似姿を発見します。 神ご自身の振る舞いを模範として行うように、神の掟は効果的に人間を助けます。

  神の愚かさ、また十字架の愚かさとは、どうしても人間が創られた時の状態を取り戻して守る事です。 十字架の上で死ぬキリストの体は、宇宙万物を満たし全ての人々を合体させ、キリストの復活された体に場所をゆずり渡しました。 結局、神の住まいは人間です。 神を見つける場所は、神の唯一のイメージであり、その似姿である人間です。 十字架の愚かさによってご自分の愛の偉大さを表された事、これこそが神の愚かさです。 私たちのために死ぬ事によって、神が救いの計画を実現しました。 世の初めから神は「私たちを愛の内に、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしょうと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1,4) 罪が私たちの内に破壊したものを神の愛は再び創造します。 それは「神が聖なるかたであるように、私たちも聖なる者となるためです。」(レビ11,45) そして「私たちはこの世の中で、神の栄光の反映になりますように。」(
Uコリ3,18)

  シナイ山の上でモーセに与えられた石に刻まれた掟の板、つまり十戒の板は長い間、聖櫃(契約の箱)の中で保存されていました。 次に、暫くの間、破壊されるまでソロモンの神殿がこの十戒を守り続けました。 追放時代が終わってから、神はご自分の民の心の中にこの掟を刻む約束をされました。(エレ31,33) しかし残念な事に、誰もこの言葉を信じないで、あっという間に新しい神殿を建てようと夢中になりました。 このエルサレムの神殿の最終的な破壊を予言する事で、怒っていたイエスは、神も神のみ言葉も人間の手で作られた建物の中に引きこもっていない事を教えています。 唯一まことの神殿とは、神の言葉であるイエス、神であって人間となったイエスだけです。 イエスは神と出会う唯一の神殿です。 「私を見た人は、父を見た」とキリストは言いました。 また、神の神殿は聖霊の交わりの中で神のみ言葉に養われ、キリストの体と一致している私たちの体でもあります。

  昔、神が預言者ホセア、イザヤを通して宣言した事を、キリストは鞭を持って力強く思い起こさせます。 「私が喜ぶのは愛であって、生け贄(いけにえ)ではない。」(ホセ6,6) 「雄羊や肥えた獣の献げ物に私は飽いた。 雄牛、小羊、雄山羊の血を私は喜ばない。」(イザ1,11) 神殿の中で商売をする人は、神の言葉が実現しないように人々に対して具体的な妨げとなっているのです。 神が受けるべき真理と霊の内に捧げられる礼拝を、彼らは自分の利益に変えてしまいました。 そこで、イエスは鞭を持って彼らを神殿から追い出します。 しかし、数日後、神の神殿であるキリストの体は 商売の品物として 三十枚位の銀貨で売られ、人々の手に引き渡され、唾をかけ、鞭打ったれて、殺されるでしょう。

  商売のような宗教に変わって、イエスは無償の礼拝を要求します。私たちの愛、祈りは条件付きなものではなく、完全に自由でなければなりません。 「神様、もし私を癒してくださるなら、私はこれとこれを、あなたのためにします。」 神は盲目的に信頼を示さないこのような祈りを嫌われます。 私たちの中に神に恵みを願って、交換する祈りをしなかったと言える人が果たしているでしょうか。 私たちの信仰の表現が交換や商売の形を取る時、私たちの中に愛の場所が無くなり、神が絶対にこの祈りを叶えない事をよく知りましょう。 条件付きの祈りや私たちの願いを叶えてもらうために、何をしたらよいかを神に説明する事もやめましょう。 むしろ「自分の体を神に喜ばれる聖なる生け贄として神に献げるために」(ローマ12,1)神のみ旨を行うように努力しましょう。 私たちの信仰と祈りが、いつも神への私たちの愛の宣言でありますように。アーメン。




            四旬節第4主日 B年  2012-3-18    グイノ・ジェラール神父

       暦代誌下36,14-16,19-23  エフェソ2,4-6  ヨハネに3,14-21

    今日の福音の箇所は、イエスとニコデモが交わした対話の結論です。 話し合いをした時、イエスは次の様に言いました。 「人は、新たに生まれなければ、神の国に入る事ができない。」 そこで、びっくりしたニコデモは「年をとったものが、どうして生まれることができましょう。 もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と言い返します。 これに対してキリストが不思議な答えをします。 「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」と。 言われたことをニコデモがよく理解する為に イエスはわざと「青銅の蛇の物語」を彼に思い起こさせます。

  昔、神の命令に従って、モーセが荒れ野で救いの印として、青銅の蛇を竿の上にかけました。 毒蛇にかまれて、この青銅の蛇を見た人に命が与えられました。 この蛇を見ることを拒む事は、自殺することに等しい事でした。 同じように、十字架に上げられたイエスを見て、信じる全ての人に救いの恵みが与えられています。 確かに、信仰の目で十字架に架けられたイエスを見ることは 人に命を与えます。 むしろ救い主イエスを見る事と彼を信じるのを拒否する事は死を選ぶ事と同じです。

  これこそ今日、イエスが先ずニコデモに、そして、特に私たち一人ひとりに与えるメッセージです。 もう一度、真の命を受ける為に、私たちは生まれ変わるように招かれています。 救い主であるキリストを通して生まれ変わる事は、肝心な選びです。 この選びを拒む人は必ず滅びと死に定められています。 命とは、人間に与えられた神の無償の賜物です。 勿論、医学や科学の進歩のお陰で、人が命を延ばすことや苦しみを和らげることや、健康を回復して、それを取り戻す事が出来ます。 しかし医学や科学の進歩にもかかわらず 人は決して死から逃れる事が出来ません。 神はすべての命が救われるように決められたから 私たちの命には意味があります。 そういう訳で「神が御子(みこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3,17)とイエスは宣言します。

  私たちを死から命へ移すために、神は具体的な道具としてイエスを使います。 使徒パウロは、仮説や可能性としてではなく、既に信仰によって得られた事実として この神秘を説明しています。 「神はイエス・キリストによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ2,6) パウロにとって、この事実は人生の終わりに人が受ける報いではありません。 今、既にここで、キリスト者はキリストの復活と神性に預かっているのです。 イエスにおいて、私たちの為に実現した救いの計画の必要性と重大さを 神は明白に宣言します。 人間はその救いのやり方に対して全く関係がないばかりでなく、その上それを想像する事さえも出来ませんでした。 「このことは、自らの力によるものではなく、神の賜物です。それは、だれも誇ることがありません。」(エフェソ2,8-9

  神の救いと言うこの無償の賜物を 人がいつでも自由に拒むことが出来ます。 神の救いの計画の失敗は 私たちの手にあります。 最もよいものとして神が提案することを、人はいつでもそれを拒む事、無視する事が出来ます。 無償で与えようとするものを人が受けるように、神は決して強制しません。 人間の自由な選びのうちに神を否定することで、自分を不幸にする悲劇があります。 イエス御自身はこのことについて、残念と嘆いています。 「人々は光よりも暗闇の方を好んだ。」(ヨハネ3,19) 暗闇を好む事を私たちは、簡単に気がつかずに、度々してしまいます。 特に、まるで神が存在していないかのように、自分たちの生き方と行いを決める時、私たちは暗闇を好みます。 使徒パウロはこの態度を「この世の慣わしに従う事だ」と言っています。

  神の子供の自由を得るために、自分の内にある改心させない澱(よど)みの力があることを認めてから、私たちはそれを支配しなければなりません。(参照ローマ8,21 ガラテヤ5,13) 私たちの信仰が、益々成長するように、私たちは神の言葉の光、真理、安定性の魅力によって引き付けられることを学ばなければなりません。 私たちを救うために 十字架上に架けられたイエスを見ながら、また、私たちに御自分の命を与えるために死ぬイエスを仰ぎみながら、神が私たちをどれほど強く愛しているかを悟りましょう。 また、どれほど神が私たちと一致したいかもよく理解しましょう。 復活されたイエスは自分の右に、父なる神の栄光の内に、私たちを座らせたいのです。 聖霊は三位一体の神の聖性の内に、愛の完成まで、絶えず私たちを導こうと努力します。

  心にいただくキリストの言葉によって、又、聖体拝領によって「肉となった神の言葉であるキリスト」の体をいただく事によって 私たちは、少しずつ生まれ変わります。 このようにして、私たちは新しい人となります。 ご自分の愛の偉大さの故に、私たちが永遠にイエスと共に生きるように神は、何よりもまず望んでいます。 「私たちの人生はキリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイ3,3) 「イエスを信じる人は永遠の命を得た。」という事を知らされているから、全ての人が救われるように心から神に乞い求めましょう。 そして特に、私たちは永遠の命という賜物を無償で受けたのですから 絶えず、神に感謝しましょう。 アーメン。



         四旬節第5主日    2012-3-25 B      グイノ・ジェラール神父

         エレミヤ3131-34  ヘブライ5,7-9 ヨハネ12,20-33

    過ぎ越しの祭りの際に、エルザレムの巡礼をしていたギリシャ人は「イエスにお目にかかりたいのです」と頼んでいます。 何という不思議な願いでしょう。 もし彼らがイエスを見たいのなら 一般の人と同じようにイエスに近寄ることは簡単です。 実に、深い望みを抱いて彼らは 個人的にイエスと出会いたいのです。 そのためにギリシャ語で話すことが出来、またギリシャ人の名前を持つフィリポとアンドレに 彼らの依頼を願います。

  このギリシャ人がイエスと出会ったかどうか 福音は教えません。 もしこの出会いが実際にあったなら このギリシャ人は、理解しにくい、そして取り留めのない話を聞きました。 何故ならイエスは 近いうちに栄光を受ける人の子や死ぬ一粒の麦について話し、また 命を失わないように自分に従うことなどを 話したからです。 このキリストの長い話は、この世とサタンに与えられる裁きで終わります。 今日生きている私たちにとっても イエスが話したこの教えは解りにくい、取り留めのない話として受け止めるでしょう!

  事実イエスは 近いうちに公に啓示する自分の役割と自分の使命について 色んな風に告げ知らせました。 イエスは預言者イザヤ、ダニエル、エゼキエルが約束した「人の子」であります。 人の子の役割は、父なる神を私たちに啓示することです。 しかし、それを実現するために イエスはどうしても受難を通して、十字架上で死ななければなりません。 十字架に掛けられたイエスは、全ての人の救いを望まれる神の御顔を現します。 神は 私たちのために死ぬ方です。 私たちを罪と悪の全ての形、そして死の支配から解放するため、また、真の命に私たちを生み出すために 神は非常に苦しんでいる方です。 十字架に上げられたキリストは、「全ての人をご自分のもとへ引き寄せます。」 十字架上で掲げられたイエスを仰ぎ見る人は、彼の苦しみを通して、神が私たちを満たそうとしている その無限の愛と永遠の栄光を見つけるでしょう。

  この大切なことを理解させるためにイエスは 収穫となるように死んでしまう一粒の麦のたとえを使います。 真心からイエスを見ようと願ったギリシャ人は、数日後、考えられない苦しみの中で 十字架上で死ぬイエスを仰ぎ見るでしょう。 しかし、十字架のつまずきとこの信仰の試練も キリストの復活を信じる助けとなるでしょう。 苦しみによって人間の姿を失ったイエスは、ご自分の命を与えることで、全ての人を救いたい神の偉大な愛を表しました。

  「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12,25)とイエスは宣言します。 イエスは近いうちに捕えられ、裁かれ、ひどい目に合ってから殺されることをよく知っています。 この運命に直面して、彼は人間らしく反応します。 「父よ、わたしをこの時から救ってください」とイエスは叫びます。 ゲッセマネというオリーブの庭で イエスはもう一度父に願います。「父よ、この杯を遠ざけてください」受けるべき死と苦しみを考えると、イエスは 私たちと同じように 人間的な恐怖と苦しみもだえる不安に陥りました。 しかし、イエスは自分の使命から離れませんでした。「わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」と、イエスは言います。 イエスは、自分の死が私たちに対する神の愛を 明白に示すことを良く知っています。 同時に自分の死が、復活の出来事を通して、神としてのご自分の栄光を示すことをよく知っています。

  私たちは皆死を恐れているので 命を失わないように全ての方法を探し求めます。 しかし、残念ながらこの戦いは失敗で終わります。 必ず死が いつか、私たちをつかみます。 イエスが生きたこと全て 私たちも体験して生きるように招いています。 大切なことは、あらゆる面で成功して好きなように暮らすことではなく、むしろ、神の無限の愛を表す自分の命を 捧げ物として生きることが最も大切なことです。

  キリストのように生きることは、神が私たちを愛していることを信じることです。 キリストのように生きることは、自分の人生が永遠の力を持っていることを知って生きることです。 神と人々の前で正しく生きながら私たちは、新しい目でこの世を見るように学びましょう。 福音のギリシャ人のように、きっと、私たちもイエスを見たいのです。 しかし、同時に自分の死について考えなければなりません。 私たちの死は まるで小さな種であり、結ばれた実は ずっと後で、他の人々に収穫されるでしょう。 ですから、キリストの愛のために世の救いを得るように奉仕として私たちの死を捧げましょう。 イエスは約束されました。 「私に仕える者がいれば、父はその人にご自分の栄光を与える」と。(ヨハネ12,26

  真の死は身体的な死ではありません。 利己主義で自分を与えることを拒む人や また自己愛のせいで自分に閉じ籠って実を全く結ばない人もすでに死にかかっているのです。 永遠の命に入るために死ぬ必要があります。 神はそれを行いました。 神は完全な愛であるからこそ、私たちのために死ぬ程の証しを残しました。 土に落ちた各一粒の麦が、この神秘を私たちに思い起こさせます。 永遠に自分の命を保つ方法は、全ての人の利益のために キリストと一致して、自分の命を捧げることです。
アーメン。


           受難の主日(枝の主日) 2012-4-1 B年    グイノ・ジェラ−ルッ神父

         イザヤ504-7  フィリピ2,611   マルコ15,139

    もう一度、イエスの受難を記念するために私たちはここに集まっています。 全人類の歴史は死刑の判決で満ちています。 毎日メディアは、憎しみや暴力や不正の犠牲者を私たちに見せます。 確かにイエスと同じ運命を受けた人は非常に多いです。 それなら、今日、なぜ世界中で人々がキリストの死を記念するのでしょうか。 その出来事から既に2000年も経ったのに。

  何世紀にもわたって神学者たちは、罪の贖いをテーマにして、キリストの受難の必要性を説明してきました。 教会の教父によると、アダムの罪からサタンがこの世の支配者になったそうです。 サタンの支配と死から私たちを引きはなして救うために、神はご自分の独り子の命を身代金として買い戻したと、教父たちは説明しています。 それに反して中世の神学者たちの説明は次のようです。 父なる神の怒りを和らげるため、また罪を償うために、私たちに代わってイエスは自分自身を生け贄として捧げたということです。 しかし、今日ではこのような説明は承諾できません。

  マルコは本当の理由を簡単に説明します。 自分が宣言する愛と赦しのメッセージのせいで、イエスは邪魔者となりました。 イエスは無理解と憎しみ、そして暴力をご自分の方に引き寄せてしまいました。 その結果、国の責任者と群衆は声を合わせて「十字架につけろ」と叫んで、キリストの死を願います。 初めから イエスはあらゆる権力と支配の形を拒みました。 柔和で謙遜なイエスは いつも犠牲者の味方になります。 自分の命を与える事でそれを証しします。 「誰も私から命を奪い取る事はできない。 私は自分からそれを与える。」(ヨハネ1017)自分の命を与える事でしか、イエスは悪の力に対する完全な勝利を得ません。 イエスの死は 神がどんな方であるかを表しています。 ある人々が考えているように 神は力強い方、私たちの不幸に無関心な方ではありません。 むしろ神は私たちのために死んでくださるお方です。 即ち私たちを愛しすぎるから 神は私たちのために死にました。 この死は愚かでつまずきになりますが、この死は神の愛がどれ程深いものかをはっきりと示します。

  神の無限の愛を考えると私は 非常に高価な香油の入った石膏の壷を壊して、イエスの足に塗った女性の事を思い出します。 これを見た弟子たちはショックを受け、無駄遣いでとんでもないことだと怒りました。 しかしイエスは、全世界の人が彼女のした事を思い出すだろうと答えます。 確かに彼女の動作は完全な愛の行いで、前もってご自分の死と葬りを預言しているとイエスは説明します。(ヨハネ127、マタイ2613) 結局この女性の愛の行いは キリストご自身が十字架上で実現する完全な愛をあらかじめ示しているのです。

  犠牲者の味方となるイエスは、全人類や人々の心の中にとぐろを巻いている暴力から私たちを解放します。 私たちが考えているように 神は暴力、恨み、戦争、不正の世界から遠くに離れていません。 また、私たちが神に与えようとしている役割、つまり正義の味方、復讐者、平和の味方の役目を神は拒んでいます。 御託身の神秘によって神は犠牲者の味方になる事をはっきり示しました。 ナザレのイエスにおいて、神はご自分の内に全人類の苦しみと全ての屈辱を集めました。 キリストは神ご自身です。 この神はいつも辱められ、冒涜され、見捨てられています。 そこで受難によって歪められた神の顔は、鏡のように人間の顔を映しています。 ミサに与る度に、私たちがキリストの受難と死を記念する理由は、イエスの命によって救われた私たちが、今後キリストの栄光の顔を、鏡のように映さなければならいないからです。

  福音史家の中でマルコは特に、受難の時イエスが孤独であった事を私たちに注目させます。 受難の時、神でさえ無言になります。 なぜなら、人間はどうしてもキリストを殺したいと言う強い意思によって、ある意味で神の全能を全滅させたからです。 確かに神は、人間が自由に選んだ死刑判決と憎しみの計画に従います。 神は愛だからこそ、他の方法を選ぶ事が出来ません。 神は「この上なく私たちを愛し抜かれた」とヨハネは宣言します。(ヨハネ131) キリストの受難と死を記念することで 私たちは次の事実を宣言します。 即ち、最も深い絶望の中にあっても、最も孤独の中に置かれても、人は絶対に一人ではないということです。 世の終わりまで、神は私たちの全ての試練を共に担っておられます。 そして、私たちの死の時が来れば、神は愛でご自分の命を完全に与えるために、また私たちのすぐ傍におられるでしょう。この良い知らせを大勢の人々に伝えなければ、私たちの信仰が無意味だとよく納得しましょう。
アーメン。




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